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市川右近、三代目市川右團次襲名披露 記者発表 2016年06月

(2016年06月13日記載)

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市川右近、三代目市川右團次襲名披露 記者発表
息子の武田タケルが二代目市川右近を名のって初舞台を踏むことが発表されました

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会見が行われました(2016年5月26日)

市川右近が三代目市川右團次を襲名し、息子の武田タケルが二代目市川右近を名のり、
2017年1月、新橋演舞場「寿新春大歌舞伎」で、襲名披露・初舞台が発表されました。

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▲緊張気味に入場。

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▲椅子に座らせてもらう武田タケルさん。

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▲お二人ともキリっとした表情。

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▲挨拶する市川右近さん。

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◆市川右近 
本日はお忙しい中私たち親子の為に、にぎにぎしくご来場賜り御礼申し上げます。このたび市川宗家のお許し、長年お世話になっております、師匠・二代目市川猿翁のご理解とお許し、二代目右團次さんのお孫さんの市川右之助さんのご理解とお許しを賜りまして、松竹株式会社様のご協力を得て、市川右團次の名跡を三代目として襲名させていただく運びと相なりました。思いますれば、海老蔵さんと師匠がお話いただいて、ケレンの大名跡ということ、これは私が長年師匠の下で学ばせていただいたケレンの世界、そして私自身が関西出身であるということで、市川右團次は関西の名跡ということもあり、この2つのことが縁あって、このような幸せな襲名をもらたしてくれたのではないかと私自身推察し、心から感謝しておる次第でございます。この上は、残った我が人生を歌舞伎に捧げまして、伝統文化の発展のために少しでもお力添えができればと、芸道精進してまいる所存でございます。それと同時に、師匠から賜り、41年間温めてきた市川右近の名前を倅の武田タケルに継がせまして、彼もいまだ海とも山とも知れぬ少年でございますが、いずれはひとかどの役者の仲間に加えていただくよう、懸命に指導して参ります。何はともあれ、まだまだ芸道未熟不鍛錬ですが、精進を重ね皆様に喜んでいただける役者に成長できるよう努めてまいります。いずれも様にはなお一層のご指導ご鞭撻をお願い申し上げます。

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◆武田タケル 
来年1月に、僕の名前が市川右近になります。一生懸命がんばります。どうぞよろしくお願いします。

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▲時折、顔を見合わせる表情に和みました。

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◆市川猿翁 書面コメント
右近さん!この度のご襲名おめでとうございます。私が病になってしまってからは、私の代わりとなって澤瀉屋のみんなの為、常に中心的な立場で頑張ってくれました。私の意志を継いでくれた君には感謝の気持ちで一杯です。この機会に、翔べ、という言葉を私から贈ります。これは『ヤマトタケル』の「天翔る心」、すなわち私の演劇人生に対する心意気でもあるのです。古典でもスーパー歌舞伎でも、私の創造精神を常に見ていたあなたは、心意気の何たるかを充分に学んでくれていると思います。名前や屋号は変わりますが、右近さんはいつまでも私の弟子です。フレー!フレー!右團次! 大きく、高く翔べ! いつも応援しております。 
師匠 二代市川猿翁より

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―――二代目市川猿翁さんからのコメントを聞かれて、今のお気持ちと、
襲名公演でこういう演目がやりたいなというものがあれば。


◆市川右近 
まず師匠の猿翁から賜った温かいお言葉、非常に胸が熱くなっております。師匠との出会いは昭和47年、1972年でございました。関西出身ですので、大阪や京都にお芝居でおみえになった時、子役としてデビューさせていただき、その後も関西での公演では必ずと言っていいほど使っていただきました。その後、東京のお芝居でも出させていただくようになり、小学5年生の頃は年間6~7カ月出させていただくようになり、師匠から入門のお誘いを賜り、50年1月に市川という苗字を賜り、名前は本名の(武田)右近からとって市川右近という名前にしようということで、一門に入らせていただきました。それ以来、中学に進学し、師匠の書斎より学校へ、そしてお芝居へ、お稽古へ、通う書生さんのような生活をしておりました。師匠からは公私にわたって、お芝居のことのみならず、師匠の生き様も学んでまいりました。今日このようにして私がここに座らせていただいているのは、全て師匠のおかげです。このたびの襲名で大きく変わることは、長年(屋号が)澤瀉屋でお世話になっておりましたのに高嶋屋に変わることだと思います。こ師匠にもお許しいただき、このような機会をもたせていただいたことは、高嶋屋になって離れていくということでは一切ないですし、師匠のお言葉にもございましたが、師匠の弟子であることは私にとって一生変わらないことですし、師匠にとっても私が弟子であることは一生変わらないことでございます。名前は変わっても、屋号は変わっても、師匠の下で学ばせていただいた生き様、師匠の芝居に対する澤瀉屋の理念を後世の役者に伝えていくことが私の使命だと思って、この後も変わらぬ、なお一層の精進をする中で、後輩への橋渡しをしていければと思っているのが私の気持ちでございます。そういうことも、師匠とももちろんお話させていただいた上でご理解を賜り、コメントにもありました通り「翔べ」という言葉を賜りました。(直筆の色紙を)持ってまいりましたのでご覧ください。力強く書かれたこの中には、師匠が人生のなかで培ってこられた、宙乗りもございますし、『ヤマトタケル』の「天翔ける心」からくるご自身の生き様も含まれておりますし、同じ思いをもって天高く翔びたてというような、新しい名前になって翔び立つんだという意味も含まれている気がします。今後の人生の指針になっていくと思います。本当に幸せ者だと思っております。
襲名披露演目についてですが、今のところ私にも推測がついておりませんで(笑)、松竹さんや師匠、同門の澤瀉屋の四代目(市川)猿之助さん、九代目(市川)中車さんを始め、みんなのお力添えを賜って今日があるので、また市川宗家の海老蔵さんとの話し合いも持ちながら、なにか澤瀉屋の僕らしいもの、高嶋屋にある僕らしい部分と重なったもので、花開けるような華やかな演目を、相談に乗っていただきながら考えようと思っております。

―――まだ決まったばかりだと思いますが、襲名をどのように認識しているかの心構えをお聞かせ下さい。
また80年ぶりの襲名ですが、今の段階でどういう右團次にしたいですか。


◆市川右近 
私にとりましては、生まれてこのかた襲名を体験させていただくのは今回が初めてで、自分の中でいろいろ考えてはおりますが、名前や屋号は変わるのかもしれませんが、私の中ではやはり師匠から受け継いできたもの、諸先輩から受け継いできたものを、自分の体を通して未来に紡いでいく、それがお客様に喜んでいただけた時に、市川右團次というお名前をお許しいただいた市川宗家、市川右之助さんに対して何らかの形でご恩返しができるのではないかと思っております。(市川右團次という名前が)自分のものになったということでなく、大きくするも小さくするも自分の責任と心得て、お預かりしながら少しでも自分のものになっていければと、あまりにも大きなお名前ですので、少しでも先人の皆さんに近付いていけるよう、なお一層の精進をしたいと思います。
どのような右團次を作っていくかということでございますけども、右團次さんは、やはりケレンの素晴らしい人であり、立役から女形、敵役までいろんなジャンルをこなされた素晴らしい俳優さんと伺っております。私は今年53歳で、どちらかというとぼちぼち落ち着いていかないといけないかなという年齢に達しておりますが(笑)、このようなお名前を賜ったので、挑戦するということも忘れず、自分の足場を固めていくということと、両方やっていく中で、澤瀉屋の精神を、右團次という名前を通して広く歌舞伎界に残していければと思っております。

―――タケル君に伺います。タケル君はスーパー歌舞伎にもなっている『ワンピース』が大好きだそうですが、
一番好きなのは誰ですか?


◆武田タケル
  ルフィです。

―――大きくなったら自分も『ワンピース』に出てみたいですか。

◆武田タケル
  (市川右近さんに促されて)はい!

―――襲名に際して、実際に猿翁さんにお会いしてかけられた言葉があれば。

◆市川右近 
私たち一門の部屋子のみんなを始め、同門の幹部さんにおいても、名代下さんにおいても、師匠が一人ひとりに「こういう名前になって欲しいな」というお気持ちをお持ちで、私もずいぶん若い頃から、特に(師匠が)病に伏されてからは「あれになったらいいんじゃないか、これになったらいいんじゃないか」と、師匠からご提案をいただいていました。そのようなおこがましいようなお話を伺っても当然のことながら何もお答えできず、その中で、右團次のお話が出ました。先ほどお話ししたケレンの話と関西出身ということもあり、最終的にトントントンと決まってきたことではありますが、水面下ではかなり前から動いており、その都度師匠とお話してきた中での今日があると思います。その中で、師匠とのディスカッションの中で一番やり取りがあったのは、僕は師匠の弟子であることに変わりはないということ、今まで通り澤瀉屋の皆さんと共にやらせていただくのも変わりはないこと、もちろん名前の系統上、成田屋(宗家)との芝居が増えることはございますが、基本の「業務内容」は(笑)、あまり変わりはないのかなと思っております。師匠はそのあたりもご理解くださり、この冒険に出していただいたと思っております。

―――日本の伝統文化の発展にも寄与したいとのお話がございましたが、
伝統文化の中でご自身が感じている使命のお考えがあればお聞かせ下さい。

◆市川右近 
残念ながら具体的にはございませんが、師匠のなされてきた偉業を後世に伝えていくことも、日本文化の発展に繋がっていくものだと思いますし、歌舞伎で活躍の場を持たせていただいて、この大きなお名前を背負わせていただいて、責任感を持って立たせていただくことも歌舞伎の発展に繋がるのではないかと思っております。役者は死ぬまで修行、死んでからも修行かなと思っております。修業しながら後世に繋いでいく、充電してインプットしながらアウトプットしていく、そうしていかないとこれで完成だ、これで終わりだと思うことがない職業ですし、それを思ってしまったら終わりだと思います。そう言う意味におきましては充電器に繋いだまま電話をするような作業を(笑)、これからもやっていかなくてはならないかなと思っております。

―――長い道のりでのご襲名になりますが、タケル君が初舞台のタイミングでこのお話だったこと、
ご本名の右近が歌舞伎の中で二代目として継がれていくことへの思いをお聞かせ下さい。


◆市川右近 
昭和38年に武田右近という本名で大阪に生まれ、50年に市川右近にならせていただきました。それから41年の歳月が流れ過ぎましたが、師匠の場合は市川團子さんから三代目市川猿之助になられ、そして二代目市川猿翁になられ、本名は喜熨斗政彦というお名前をお持ちで、いろんなお名前がありますが、私はずっと右近ちゃんで通ってまいりました。その名前を息子に譲るというのは、師匠に育ててきていただいた人生そのものを息子に譲っていくということに相成るのかなと思いますし、多分、この襲名が終わりました時に、右近の親が右近で、というような、非常に不思議な時がくるかなと思っております(笑)。『ワンピース』でも尾上右近さんと共演させていただき、「右近さん!」と言うと2人が振り向くこともありましたが、市川という苗字も、私が今日まで使わせていただいた名前を彼が継ぎますので、どういう気持ちなのかと考えますが、おそらく、どこかで自分の人生と彼の人生とを重ねながら、いろんなことを指導していったりするのかなとは思います。


※澤瀉屋の「瀉」のつくりは正しくは“わかんむり”です。

三代目市川右團次襲名披露 二代目市川右近初舞台は

2017年1月、新橋演舞場「寿新春大歌舞伎」で行なわれます

 

 

 
 

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